ジョージ・マイケルとシェークスピア 2016.12.31

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 ジョージ・マイケルが先日亡くなった。53歳という若さでの死である。
 彼は80年代、全米をはじめとしてワールド・ポップ・ミュージック・チャートを席巻していた。今年、ジョージ同様にその年代に大活躍したプリンスが他界した。数年前にはマイケル・ジャクソンホイットニー・ヒューストンなどが早世しているのは周知のことである。
 この80年代、小林克也司会の「Best Hit USA」がテレヴィで放映され、全米ポップスが若者の心をいっそう捉えることになった。当時彼らは聖子ちゃんや明菜ちゃんらに熱狂する傍ら、Best Hit USAを通じてPV映像とともに流れ出てきた異国の音楽は3Dを意識したサラウンド音響が冴え、そのクウォリティの高さに彼女たちのそれとは格の違いを見せつけていたように私には思えた。私も含めて当時の若い世代の多くは次第に全米ポップスに惹かれていくようになっていった。私はジョージ・マイケルの熱唱する歌唱力に魅了された一人だった。

 ジョージの音楽の特徴の一つとしてまずその明るいサウンドがあげられるといえる。「Freedom」「Wake Me Up Before You Go-Go」などは、①若者の明るい未来を讃える音楽だと思う。Freedom の歌詞の一つを紹介するとこんな感じだ。
 Part-time love just brings me down. I don't want your freedom. Girl, all I want right now is you. 
 僕は中途半端な愛なんて要らない、君を自由にさせない、今、君が僕の全てなんだ。
 調性はC-Major scale。

 かと思えば、②アダルティーな苦悩する恋を歌いもした。「Careless Whisper」「Everything She Wants」などはそのカテゴリーに相当する。同様にEverything She Wantsの歌詞をみると、
 They told me marriage was a give and take. Well, show me you can take. you've got some giving to do.
 君は結婚はギヴ&テイクなんていうけど、私にテイク出来るものなんてあるの?君は与えてもらうことだけを求めているの、といった具合だ。
 調性はF♯natural-Minor scale

 さらには③ハッピーを味わいもし悲痛な心持にも陥る微妙な心情を曲に著しもした。「Last Christmas」はそのような曲想である。
 A face on a lover with a fire in his heart. A man under cover but you tore me apart. Now I’ve found a real love. You’ll never fool me again.
 心に愛の火を灯す恋する男の表情があるというのにそれを君の前で隠していたのは、君が僕の心を引き裂いたからだ。今、本当の愛を見つけたんだ。(愛は人を強くするものだ。そんな愛を知った男を前にして)君はもう二度と僕を蔑ろにはできないことだろう。
 調性はG♭-Major scale。

 このようにジョージの音楽を振り返って、私はふとWilliam Shakespeareの戯曲を連想した。Shakespeareの作品は研究者によってTragedy, Comedy, The romancesという括りにカテゴライズされていることは知られているところだ。
 Tragedyがジョージの音楽でいうところの②のMinor scale、
 Comedyは①のMajor scale、
 The romancesは③のMajor scaleとMinor scaleのmixture、 
にそれぞれ相当すると考える。
 Shakespeareの作品は次のようになる。
 四大悲劇として知られているHamlet、Othello、King Lear、MacbethなどはTragedy、
 A Midsummer Night's Dream、The Merchant of Venice、As You Like ItなどはComedy、
 The Winter's Tale、The TempestなどはThe romances。

 「Hamlet」は父殺し、恋人(Ophelia)の自殺、エンディングではHamletの死といった救いのない悲劇を描いた。「To be or not to be, that is the question.」というセンテンスは悲痛な究極のこの世界というものを端的に示している。
 「As You Like It」は若い男女の、羊飼いや道化を巻き込んでのコケットな恋物語。「A fool thinks himself to be wise, but a wise man knows himself to be a fool.」といったウイットに富んだ囁きも随所に見られる。
 「The Winter's Tale」は不倫を扱い、歳月の流れが和解を生み、次世代における幸福な結婚へとつながる物語。「Here come those I have done good to against my will, and already appearing in the blossoms of their fortune.」はこの作品を象徴する一節であろう。

 16世紀後半から17世紀にかけて生きたShakespeareは、初期に「Henry VI」「Richard III」のような歴史劇を創作していた。そこで歴史がどう動いたのかを彼自身学んだのだと思う。15世紀中庸まで100年戦争がフランスとの間で行なわれ、その後も国内では王位継承を争うためバラ戦争が起こり民族内に蟠りが燻ぶった。彼は絶えない戦争の中で本当の敵は実は身内にあったことを重く見たのだと思う。権力争い、嫉妬、世俗に染まり切ったトリヴィアルな問題に宮廷生活内においても、いわば上流社会においても同様に翻弄されている人々の姿を見出すことになった。このことがその後のShakespeareの創作に大きな影響を与えることになったのだと私は思っている。「Hamlet」「Othello」「King Lear」「Macbeth」はいずれも王家を描きながら、王家で起きていることも、覇権争い(authority)、財産相続問題(money)、男女問題(affair)に明け暮れている姿を克明に描写して、巷間で起きていることとスケールに大小があれ、さして違いがないのだと主張したかったのではないのだろうか。人間における普遍の問題であると。
 それから400年程経ってジョージ・マイケルの音楽においても男女問題における切なさや苦悩を情熱的に歌い上げた。Shakespeareが考えたことを同じイングランドで生まれ育ったジョージは現代においても状況は本質的には不変で、だからこそ受け継いでShakespeareの意志をイングランドの魂を音楽によって世界に示したかったのではないか。先に示したとおり両者において驚くべき類似点が見られる。イングランドの歴史と風土に育てられたShakespeare の魂は、同じ地で生まれ育ったジョージ・マイケルのそれに影響を与えていったとしても不思議ではない。
 日本でも同じような経験がある。夏目漱石によって、近代社会の幕開けとともにそれまで封建制度の中で閉ざされていた個人の自我が、否応なく目覚めさせられるという経験を誰もがすることになり、時代のパラダイム転換に戸惑いながらもあるいは苦悩しながらも生きていく人間像を鮮やかに描き出したが、それから1世紀ほどが経過して、村上春樹氏が2009年のエルサレム賞受賞時のスピーチにおいて語ったように、例え世界が権力により高度なシステムに覆い尽されていたとしても、決してシステムに捕捉しきれない掛け替えのない個人を見つめていきたいという趣旨の信念は、村上氏本人はこれまでの対談などの様々な機会において漱石には影響されていないと語ってはいるが、漱石の取り組んだ問題提起に通じるものがあり挑んでいるようにさえも私には思える。何しろ奥様の陽子さんの卒論は夏目漱石をテーマにしたものだったというのだから。
 「Thriller」「Bad」に代表されるマイケル・ジャクソンのリズム重視(メロディー<リズム)のビート・ミュージックや、プリンスのred(Major scaleのイメージ)でもblue(Minor scaleのイメージ)でもないpurple(atonalityのイメージ)というambiguousなミステリアス・ミュージックでは、例えば「タイタニック」「ロード・オブ・ザ・リング」のようなハリウッド映画に多々見られる仕掛けが大きくVRを思わせるマクロコスモスを表現できたとしても、Shakespeareが描いたような王であろうともなかろうとも分け隔てなく一人の人間の心情の機微を丁寧になぞろうとするような、カンヌ映画例えば「愛、アムール」「雪の轍」や、ヴェネチア映画例えば「別離」で描かれたように、社会とその時代を意識しつつ人間内面を深く掘り下げていくようなミクロコスモスを表現することはできなかったと私はみる。もっともこの二人のアメリカ人は歴史をあまり考えようとはしていなかったのではないかと思う。歴史をいうにしても彼らはむしろ未来を見つめていたといえるのかもしれない。西暦2416年頃のアメリカで振り返られた時に、マイケル・ジャクソン、プリンスをリスペクトする音楽なり芸術なりが持て囃されるようになっていることを、もしかすると望んでいたのではないのだろうか。ジョージ・マイケルの志向とはヴェクトルが逆向きではなかったのか。
 ここでパステルナークがロシア革命を生きた人々を描いた著作「ドクトル・ジヴァコ」の中の次の場面を紹介したい。ジヴァコは戦乱でモスクワを逃れた際に、偶然若い頃のガールフレンドで共に高い志を抱いていたラリーサに出会い時代について語り合う場面がある。ジヴァコは巷の革命家を鼓吹者あるいは空騒ぎする人として位置づけ、問題はパンを求めることではなく地球規模の世界の建設のために命を捧げることだとするような彼らの考えに対して異議を唱える。ジヴァコのパンの例えに呼応してラリーサは、ノアの洪水以前には人々は弱い存在のため偶像崇拝の軛から解放されようにもできなかったという現実があったが、洪水後もその地に残された人々の宗教的基盤を(約束の地に向った)人たちの長きにわたる日々の地道な信頼関係の構築努力によって作ったのだと語る。パステルナークはロシア革命の思想が歴史教訓を通過しないすなわち歴史不在の刹那的なものとして極めて危険な思想であることを見抜いていた。世界の変革には十分な時間が必要で、英雄が一人でできるものではなく、人々の弛まぬ努力があって初めて可能になるのであると。もしかしたらマイケル・ジャクソンやプリンスのようなスーパースターは歴史の中では偶像崇拝の軛に陥っている存在として君臨しているのではないだろうか。一方Shakespeareという歴史的人物を潜り抜けたジョージは彼と共に現代を生き約束の地に向って進んで行く意志を携えようとしたのではないかと私は考える。
 因みに先の文章で、パンの例えはマタイによる福音書からの引用で、偶像崇拝の軛とはユダヤ・キリスト教以前の信仰を、その地に残された人々の宗教的基盤とはキリスト教を、約束の地に向った人たちとは後のユダヤ教徒のことを指す。

 ジョージ・マイケルは創作に当たっていつからかShakespeareを自然とリスペクトしたように思う。我々日本人であれば学校の授業などで触れざるを得ない漱石の作品に感動を覚え、我々は漱石にそれを自然に感じていくように。おそらくジョージは観劇のためRoyal Opera Houseに足繫く通っていたのではないか。やがて自身の音楽に色濃く反映されていった、そんなこともふと想像しました。Shakespeareが亡くなって丁度400年後の今年に彼が逝ったということに因縁めいたものを感じずにはいられない。


 村上春樹氏が「村上さんのところ」でスガシカオさんのファンだと言っていました。「キセキ」は高校野球のテーマソングで印象に残っています。ハスキーなヴォイスもそうですが、彼のサウンドは独特で日本人離れした音楽センスを備えていると私は思います。

 今村夏子氏の芥川賞候補作「あひる」ですが純文学としては売れ行きが好調とのことです。私は「こちらあみ子」を読みました。内向の世界を丁寧に描いて他者に対しても心配りのできる控えめな作家だと思いました。チェ・シル氏もそうだけど美人だし人気出るような感じがします。しかし世界に対して心を閉ざしている感がします。そこはチェ・シル氏とは決定的に異なるところだと思います。芥川賞発表後、文芸評論家で自身も同賞候補になったことのある小谷野敦氏は雑誌文芸春秋(だったと思います)の対談の中で、受賞の可能性が高かったと評価しています。私の印象だと彼女の文章はパラグラフが一つの単位になって、パラグラフ同士が関係を繋いでさらに章として構成される。その章が単体で現在のところ小説になっている。だから一文、次の一文というような単位で読み継いでいくと、小説における読み位置が見失われる可能性が読者にはあると思います。少し難解か。逆に分かる人はそれが囲碁でいうところの味になっています。資質としては短編作家かな。小谷野氏が評価するように短編作家としては正に名人芸です。また小谷野氏によるとチェ・シル氏の文章が粗削りなのと比べると対照的だといいます。

 ところで山上浩嗣氏の下記著作がこの程講談社学術文庫より刊行されました。

 パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章
 詳細は下記アドレスのとおりです。
 http://www.g-bunko.jp/ 
 http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923941 

 私は既に読みました。今回は詳しく述べることを控えますが勉強になったことは報告したいと思います。

 写真は代々木公園近くのNHK前のプロムナードです。
 どうか良い年を迎えられますように。

政治と経済、戦争と平和 2016.7.19

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 先の参議院選挙で自民党は勝利したといえる。改憲が一つの主要な争点となった今回の選挙。改憲勢力が参議院憲法改正の発議を行うことのできる議員全体のほぼ2/3を占めるに至ったからだ。イギリスにおける国民投票の結果EUから離脱するというショッキングな事態は世界を混乱に陥れたが、一方でそのショックから1ヵ月も満たない中での国政選挙において自民党の勝利という結果は、イギリスのEU離脱という深刻な事態からの影響が現在のところ日本においては殆ど及ぶことはないであろうと世界は観たのではないか。つまり日本における政治経済は安定していると。国家の基盤となるファンダメンタルズの安定は、ファンドをはじめとする投資家の投資先としてはsafe havenつまり適格として再び目が向けられることになった。そのため日本における株価が上昇したと考える。今後特異な事態が生じない限り日経平均株価16,000円を一つの分岐点と考えた場合、当面は株高のまま推移すると考える。
 勢いを取り戻した安倍政権は、これを契機に水面下では政治が介入して為替相場における円安方向へ誘導する政策を駆使してアベノミクスを再び加速させるであろう。例えば政治の金融経済への関与については、「世界」7月号には「黒田バズーカ」の手法等が紹介されている。円の空売りという手法である。これによりマーケットにおける円の流通量が過大になり円安が誘導される。円安は輸出を活性化させ、輸出に頼る日本経済に追い風となり、株価が上昇するということである。
 アベノミクス推進にはさらにきめ細かな配慮が求められるという。外国の投資家が日本で折角利益を得たとしても、通貨を自国に持ち帰る時に通貨レートが変わり時には儲けが得られないという事態が想定されるのである。そこで交換レートをあらかじめ約束しておくとそういう事態は避けられる。これを通貨swapと呼び、通貨swapにより投機筋は日本株の売買における自国通貨への交換が可視化され、為替リスクを避けることを可能にしたのである。つまり日本株に対する様々なリスクが回避されるよう日本政府は手を施してきたのである。これにより日本株は安全と判断され売買が活性化する。日本の株価が上昇するという流れである。アベノミクスのメカニズムの一端である。
 この約束の立会人(保証人)としての役割を果たすのが世界メガバンクシティバンクドイツ銀行バークレイズ銀行JPモルガン・アンド・チェースバンク・オブ・アメリカetc)&ゴールドマンサックスである。彼らはその際の手数料で大儲けしているという。
 メガバンクが常に食指を伸ばしているのは差益と手数料(margin)である。例えば通貨交換レートから派生する為替差益や手数料であり、それを保証するためメガバンクは政治と結びついて法律の制定や改変によって投資を呼び込みやすい状況をお膳立てする。先の通貨swapなどはそれである。身近な例でいうとNISAもそれにあたるであろう。
 そしてこの通貨swapを可能にしているシステムがSWIFT(Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication)である。そこでは金融の通信フォーマットを共通化して世界的ネットワークを構築している。これに加盟するメガバンクを中心とする金融機関が時にデータを都合のいいように書き換えるというのである。例えばサブプライムローンの問題が生じた時に決済日の変更を行い、いわゆる飛ばしが実行された。猶予された間に、それにCDS(Credit default swap)すなわち保険をかけ、損失を補てんするという荒業に出ることを可能にしているのである。
 しかし更なる投資の拡大を図ることは世界において極めて困難な状況にあるといえる。資本投資適格な状況には3条件が前提とされなければならない。すなわち、人口増加、フロンティア開拓、技術革新である。
 この3要件への言及は既に世界恐慌後に経済学者アルビン・ハンセンが指摘していた。現代においてこの3要件が満たされにくい状況に直面している。先進国では人口増加が殆ど見込めなくなっているばかりか減少に転じている。日本もその例外ではない。
 フロンティア開拓も大規模な自然開発がCo₂を排出し地球の温暖化現象を招いて、最早限界に達した感がある。歴史において16世紀からスペイン、イギリス、フランスなどの欧州列強や後にアメリカも加わってアメリカ大陸、アジア、アフリカへの侵略によりフロンティアを求め続けてきた。21世紀の今日、宇宙開発を考えない限り地球規模でそれを考えることはほぼ不可能と言っても過言ではなくなっている。
 技術革新は日々目覚ましく発展している。AI(人口知能)に見られるように人間の知能をいずれ凌駕するのではないかと言われるテクノロジーが現れている。例えば今年、囲碁界においてAIが世界王座と言われるイ・ セドル氏に3連勝した。身近な例では携帯から進化したスマートフォンはネット、ライン、フォト、動画、ポケモンGOなどありとあらゆることが出来るといえ、万能ツールとして私たちの身に寄り添うものとなっている。
 とはいえ技術革新がもたらす恩恵が得られるのは人口の増加が今後見込みにくい先進国の人々である。発展途上国においてはそれどころではない。相変わらず飢餓、疫病、内戦等による生命の危機に曝されているのである。先進国でも経済格差が拡大してその恩恵を受けられる者とそうでない者とに別れる状況が顕著になってきている。つまり技術革新が発展したとしても、ふた昔前の日本におけるテレビ、冷蔵庫、エアコンという三種の神器のように爆発的に民衆に購買されるものではないという現状を踏まえなければならない。
 以上経済発展に必要な3要件が今後満たされる素地が最早この世界には存在しづらいものとなっていると私はみる。
 資本はそれでも増殖し続けること、すなわち資本の蓄積を止めようとはしないであろう。止めてしまえば利潤極大を常に追求する純粋資本主義は終わってしまう。実体経済が益々行き詰ってきているというのであれば、今度は金融経済へのコンヴァートをさらに推し進めればいいとなる。これが一般的な企業社会の論理である。モノが売れないのであれば、デリヴァティヴといったtechnostructure(金融工学)を駆使した実体のない金融商品に食指を伸ばし何としても利益を得ようとしなければならない。だがやがてそこにも限界が生じる。経済、資本の行き詰りである。行き場を失った資本は増殖をめざして暴走する。ティロールはそのことを見越していて、しかし金融工学が現実には必要不可欠な既存の状況に理解を示したうえで、モラルを強く問うことを呼びかけたのである。
 資本の暴走とはどういうことか。資本の増殖が臨界点に達する終局のアスペクトにおいては、歴史を振り返ると戦争、例えば30年戦争、ナポレオンによるイタリア、エジプト、ロシアなどへの遠征、近代においては二つの世界大戦その後の冷戦に現れているように、戦争を余儀なくされたのである。終戦後焼野原となりリセットされると、再び資本は同様に増殖することを止めなかった。そして今世界不況に陥り資本の拡張は臨界点に達した感がある。資本はそれでもあがいて利潤を求めて新たな資本を探し回ることにおそらくなるであろう。その行き着く先はやはり戦争だと疑わざるを得ない。戦争は経済勃興には一番手っ取り早い。つまり歴史が証明した通りscrap&buildである。
 イギリスにおいてEUに残留か離脱かを問う国民投票について、投票前には接戦だが国民は良識を持つと信じるので残留する結果になるであろうという論調が多数を占めていた。ところが僅差で離脱への票が上回った。理性で推し量ることのできないこのようなことが生じたのはなぜか。EUに残留した場合、この連合は人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、平等、法の支配、マイノリティに属する権利を含む人権の尊重という価値観に基づくestablishmentの尊重から、移民、難民に対して寛容でなければならなくなる。現在中東からはシリアの人たちが欧州に難を逃れてやってきている。受容しなければならない。すると私たちの仕事が彼らに奪われるかもしれない、あるいは素性がわからないという不安から犯罪の増加を招くのではないかと猜疑心に見舞われ、理性が失われ感情的に自己本位になって他者を排斥するという心理が働いたと私はみる。
 この選択によって、経済問題でいうと通貨ポンドや国内株も下落していることや、そこに目をつけ早速ソフトバンクがイギリスの企業をハゲタカ感覚で3兆円超で買収するなどの動きが見られることになった。また将来の見通しとしては欧州間取引に関税が復活して、イギリス国内の物価の上昇を招くことは必至である。しかしそんなことより何よりも私はイギリス人は利己主義だと宣言したも同然となったことを憂う。イギリス人は正に世界に恥を曝したのである。
 転じて日本について目を向ける。憲法改正、9条改正を国会で審議して決を採れば議員全体の2/3以上の賛成により衆参両議院で可決することが今回の選挙でほぼ可能となった。次は国民への発議を行い、国民投票有権者の過半数の賛同を得られればめでたく自民党の永年の念願であった9条改正が実現することになる。
 私は戦争ができる国になるという強い国に日本がなることを多くの国民は望んでいないはずであると言いたい。なぜなら歴史において、日本は参戦してアジアの国々の人々に虐殺をはじめとする非道残酷な行為を行い、大いなる苦痛を与えたことへの反省や、原爆投下、空襲による日本全土が焦土と化し、類例をみない多くの死者が出たことへの反省から、もう2度と戦争をしてはならない、何よりも平和を希求していきたいと強い誓いを立てたはずだからだ。だから9条改正の発議を行えば国民投票で否決されるとみる。
 しかし楽観はできない。イギリスで起きたようなことが現実に起こる可能性がないとは言えないのである。戦争のできる強い国になって経済不況を何とか打開したい。経済が活性化するのであれば、よその国であれば戦争したって構わない。それに戦地に行くのは自衛隊員であって自分ではないのだから、というようなイギリス国民の間でみられた利己主義という心理が働けばあながち可決されてしまうかもしれないのである。
 そうならないために、私がやっていることの一つは報道番組を必ず視聴することである。私の場合、テレビ朝日の「報道ステーション」である。新聞に目を通すことも同じ効果が得られると思う。とにかく世界に対して意識的になること。会社組織だけでものを考えることは避けてほしい。つまり会社人間にはならないで欲しい。狭い視野しか得られないので、会社組織の外部の人間とはコミュニケーションができない人間になる。実際そんな人を私は何度も見かけてきた。大企業などの社員の中には会社人間が多数おられるかと推測するが、その場合は取引先の相手方と軽い世間話を交わすことをしていただきたい。商談で有利な状況を作り出すことにも一役を担うものとなるので是非行っていただきたい。face to face、最後は人間の顔の見える企業が信用を勝ち取るという経験は全うなビジネスマンであればどこかでしているはずである。ちょっとした雑談を交わすことによって企業によってそのカルチャーは随分と違うものであることを認識するはずである。そして世界は多様なんだと自覚するはずである。その自覚が世界の広がりを他者を認識させることにつながるのである。
 他者も人。人の苦しみを想像できれば戦争は否定されるべきものです。自ずと9条の大切さを我々は知ることになるのです。

ジニのパズル 2016.6.23

 

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 1月ほど前に、故中上健次氏の作品を鑑賞するなど氏の功績を振り返るために定期的に開催している会合に初めて参加して参りました。その後の懇親会において、先の会合にゲストとして参加されていた文芸評論家の佐藤康智氏は今注目される作家はチェシル氏であると断言されました。今回、芥川賞候補に今村夏子氏とともにノミネートされております。
 そういうことがあり、「ジニのパズル」を群像6月号に新人賞受賞作品として掲載されており読んでみました。読み手の立場からは、苦難は世界観を拡張していくものなのだという、なので世界の多様性という豊かさにも似た感情をもたらすという皮肉にもパラドキシカルな状況に対峙することになって、読み応え満載という思いに至りました。一読者のそんな思いとは裏腹に、作者は骨身を削る思いで執筆され、書き終えた時には相当な脱力感に見舞われたことと察します。作者の読者に対する究極の自己犠牲といえるのかもしれません。しかし同時にそれは作家冥利に尽きるといえるのかもしれません。

 主人公は在日というルーツがあり、日本社会においては北朝鮮とは国際関係の不和から負のヴェクトルに作用して彼女自身に否応なく波及していき困難に行き当たります。問題はリネージ (lineage)にあり、だからそれ自体はどうすることもできないアプリオリなものとしてあるのだから、運命のように重く圧し掛かり避けられません。(勿論理不尽に対して抗するということもできるのでしょうが)。であればその外部へと流れていくことに活路を見出さざるを得ない。実際主人公はアメリカに渡ります。主人公は3カ国(韓国を加えれば4カ国)を越境していくのです。主人公は苦悩しながらも世界を広く見聞することになります。
 現代のディアスポラ(diaspora)の一つの様相といえるのかもしれません。私は古代ユダヤ民族の史実、旧約聖書の「出エジプト記」のことに思い至りました。モーセの導きによりイスラエルの民はエジプトからのエクソダス (Exodus)を遂げます。そして神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地(約束の地)カナンに、彼らは安息の地を求め辿り着くのです。
 最近でもこれとよく似たことがありました。シリアの人たちがISとシリア国家との戦いから迫害を受けて生活の場を奪われて難民となり欧州へと移動したのです。人間の存在価値が卑しめられる事態は歴史を振り返って反復しています。このようにミレニアムという人類をパースペクティヴにとらえようとする時間単位で観た場合にいっそう明確化されます。
 そして日本においてもその例外でない。一人の人間の問題として、すなわちイエスが説いたように、私たちの隣人の問題として有史以来続いている他者意識に根ざす普遍的な問題として、こうした問題をとらえる必要があります。「ジニのパズル」で描かれている問題も隣人の問題と考えることができます。何故なら在日の人たちを私たちが見かけることは決して珍しいことではないからです。今横をすれ違った人が在日の人であることは日本社会では決して珍しいことではないのです。
 テポドンが本当に日本を襲ったならば、彼らに対する敵意が私たち(日本人)に生まれる可能性は極めて高いと思われます。その時に一人の隣人が何の罪も咎もない単に在日というだけで、私たちは彼に対して寛容に接することができるのか大いに問われることになります。「ジニのパズル」はそういう状況を私たちに想像させてくれる作品なのです。
 因みに赤坂真理「東京プリズン」も、現代においても戦勝国アメリカと敗戦国日本という歴史に翻弄される日本人留学生の苦闘が、やがて哀切感を醸し出しながらも豊かな世界に結実する姿を描いており「ジニのパズル」と類似点が見られる作品といえます。 

 安倍首相が消費税増税を再延期したことは評価したいと思います。昨年ピケティ氏が来日した際に、日本さらには世界の経済状況から今は増税よりも財政出動をと意見しました。それが首相の脳裏に残っていたのか、昨今ではステグリッツ氏、クルーグマン氏を招いてレクチャーを受けた。そして首相は素直になった。これが小泉氏であったり、徹氏であると、何が何でもとなって強行したであろうと私は思います。そうなればおおよそ寛容の精神を欠いたものとなります。フランスでは今シャルリ・エブドの事件やその後にも続いたテロ事件から、200年ほど前のヴォルテール著作「寛容論」が俄然注目されているといいます。
 フランス革命後にロベスピエールなどによる恐怖政治などパリは荒廃しました。テルミドールブリュメールのクーデターを経て市民生活は一見落ち着きを取り戻したものの、不安募る市民の精神的支えとして「寛容論」は著され支持を得ました。増税を行い改憲に踏み切れば安倍政権は終焉を迎えることになると思います。そこには寛容がない、あるのは強い国家であって、市民はなおざりにされることになるからです。革命思想に理念としての正当性を与え忠実に実行すれば暴力を生みだし流血という惨状を招き、さらに報復の連鎖が蔓延し事態の収拾がつかなくなるのです。ヴォルテールは目の前で起こった歴史の教訓を学び、理念ではない人々の感情の問題に訴えてこの危機を乗り越えようと呼びかけたのです。
 増税なくともお金は世界の至る所に巨額にあるのです。パナマ文書が証明しています。例えば国有地の売却、法人税相続税マイナンバー制度の威力によりきっちりと徴収すれば、間違いなく今日本にある議論は殆ど解消されるのではないかと思います。租税回避、あるいは公金を公私混同するような知事がいたりするから税収不足などという問題が出てくるのです。

 昨今私はしばしば上京して、東大で開催される公開講座に参加しています。写真は先月行われた講座でアメリカの作家スティーヴン・ミルハウザー氏と作品を翻訳している柴田元幸先生です。東京が関西と大いに異なるのは勿論経済規模もそうでしょうが、私が思うには何といっても情報発信量かと思います。関西は圧倒的に東京と比べれば少ない。これはある意味において致命的で、関西が東京に比べて格差の広がりに歯止めがかからない大きな理由だと思います。東京はほぼ何でもある。例えばある講演会に世界の作家を連れて来たいと思えばそれが可能になる。何故なら一つには人口それ自体が首都圏は関西圏の2倍以上いて、講演を催せば聴講する人が必ずそれなりに集まってくるからだと思います。それに私のような自称文化人と思っているような人も多いように聞いております。だからこの日の講演は満席になりました。
 他にも映画もそうです。コアなことを言いますと、旧ユーゴの国々の現代映画が、大学関係者が翻訳するか、あるいは日本語未翻訳のまま英語字幕のものを紹介するかして、いわばコミュニティーレベルで上映されたのを私は鑑賞しました。ハリウッドの面白過ぎる映画なんかとはクオリティーが全く違う。本当の世界を描いている。私は感心しました。美術も音楽もそうかと思います。私はFMで鑑賞しましたが、音楽ではGWに日比谷でラ・フォル・ジュルネ音楽祭が開催されておりました。ここでも世界で活躍の音楽家が集い演奏したのです。東京は一極集中の他に情報過多という批判も一方で存在するかとは思いますが、これまで関西(local)に住んでいた私にはやはり新鮮で東京(central)の魅力にはまりそうです。

 やるのであれば東大しかありません。ただもう少し、読書を入念にして準備をしておきたい。論文作成の材料にも当然なりますし、研究計画の作成にも必要になります。ただ研究というよりは個人的な意味合いにおいては探求ですね。おそらくこれは死ぬまで止められない。探求のために東大を利用する。また偏見といわれるかもしれませんが私にとっては東大以外は利用価値がないともいえます。そもそも文学をtransversal studyとして捉えようとする大学は殆どない。縦割り行政とはよく言われましたが、アカデミーもそういう要素は多分にあると思います。沼野充義先生はそういう意味で柔軟だと思います。積極的に他の教室、例えば英米文学の教室と連携を図っていこうとされているように思います。例えば他教室との共同企画でのイヴェントを積極的に開催しております。この姿勢には敬服の一語です。今月早稲田に行ってきましたが、学生の数だけやたら多くて、参加者は本気で研究しようというヘーゲルニーチェが強調するテュモスがそこにあるようには私には感じられませんでした。来月は東大です。そして最終的に門をくぐることになったとしてもいつまでも学生というようなわけにはいかないわけだから、社会に対してフィードバックしないといけないと思います。英語もどんどん読まないといけないと思いますし、フランス語もできないとダメだし。
 こんなことを話せるのは身近にはあなたしかいません。原田では話にならない。齋藤、松井、横田・・・も同様です。逆に彼らから見ると私はそう映っているのかもしれませんし、そういうお前はそもそも結果として社会に適応できていないではないかと、何様なんだと怒られるというよりは笑われてしまいそうですがそれを承知で本音を漏らしました。川口はちょっと話せるかな。基本的に彼らは理系技術者だから・・・。彼らを愚弄するようで申し訳ないけど。私の悪いところです。このブログだってあなたがいないと書く意味がない。書こうという気持ちにもならない。人は結局人によって生かされ、人によって自己を発見することができるものと考えます。さらに私によってあなたが生かされるのであればこれは冥利です。

 今村夏子氏は知らなかったです。一読してみます。

最近思うこと 2016.2.11

 先ごろの株高は、冷静な経済アナリストによると、株の時価総額でみた場合、実質的には90年代前後のバブル期やリーマンショック前のITバブル時代のそれとほぼ同レヴェルの域に達していると警鐘を発していました。つまり昨今の株高は明らかに過剰であり、かつてのように株価暴落が反復されるであろうということでした。
 素人目で見れば、この10年間くらいの株価の推移は、ザックリ考えると、上が20,000円、下が8,000円で、この間、物価上昇はゼロとみなしてもそれ程差し支えはないかと思います。であれば日経平均株価の実力値はその間をとって14,000円ではないかと私は思います。昨日現在も株価が下降しておりますが、それでもまだ幾分日本経済、日本社会に対する信用は高い状況が続いているように思います。実際、今日も海外では円高が進行しました。
 円安による自動車などの輸出産業が活況を呈していること、中国人の日本における大量消費(爆買い)、東京オリンピック開催によるインフラ整備等に関わる経済効果への期待感の高まり以外に、これといって日本経済の先行きの見通しに明るさを感じられるものはないのではないでしょうか。しかもトリクルダウン方式であるという指摘が真実であれば、マルクスではありませんがそうした利益を一部の権益を握るものが殆ど総取りして、下部構造にあるサラリーパーソンは得られても僅かに過ぎないということになっているのではないでしょうか。
 このように経済への明るさを人々は抱くことが出来ないので内部需要は依然として停滞しています。ユニクロでさえも昨年は減益が顕著であったとのことでした。日本マクドナルドに至っては日本からの撤退もありうるということですが、CEOがアメリカ人なのでそれは十分に考えられると思います。低価格商品でさえも売れ行きが伸びない。では高いものが売れているのか。私は売れていないと思います。売れているものもあるにはあります。例えば東京都心のマンションなどは販売好調といいます。実際前年比に比べて物件価格がじわりと上昇しています。一部の人たち(トマ・ピケティが論を展開する時にしばしば使うコーホート(cohort)の概念を日本にも当てはめて考えると、私の考えでは全体の1%以下の人たち)はアグレッシヴまたは比較的にアグレッシヴに消費していると思います。こういう人たちをマスコミが取り上げて報道すると、それを見た人は簡単にこれが一般的なトレンドなのだと感化されてしまうのです。テレビ東京WBSを見ているとそんな思いがします。大江真理子はいいキャスターなんだけど。
 何故売れないのか、新しいテクノロジー開発(例えば固定電話→携帯電話→スマートフォン)のような人々のニーズに応えるものが目ぼしいということもありますが、主として人口減少社会による消費の新たな創出が見込みにくいという影響から来るものと思います。この相互に関連する事態、つまりモノが売れないということと人口減少問題は憂慮すべき事態だと思います。
 時の政府は経済政策からはアベノミクス社会政策からは、例えば男性が休暇をとって夫婦で共に育児を行うというスローガンのもとに、一億総活躍社会の実現による日本再生を進めようとして事態の打開に動いていますが、甘利元大臣や宮崎謙介議員のような自民党の議員が場外でスキャンダルを起こしているようでは、国民の政治家に対する信頼が生まれず、私たちのマインドは沈んだままとなるでしょう。残念ながらこのスパイラルは私の見立てではこれは当面変わらない。私は日本の現状はそれでもまだいい状況にあると思います。さらに悪くなっても不思議ではないと思います。行き着く先の最悪の事態は戦争です。日本は平和国家だから大丈夫というのは幻想です。政府は現に9条を変えようとしています。
 歴史を紐解いた時に、ウォーラーステインによると、社会が安定した状態はいつまでも続かず、行き詰まったときに戦争が起こりparadigm転換したといいます。つまり近代社会が中世の神学思考の世界からガリレオやコペルニクスらの自然科学の発達により合理主義へと啓蒙されて以来、君主国や帝国が崩壊していき、変わって合理性を追求する科学的根拠に裏付けのない特権に拘束されない自由主義が台頭したというのです。具体的には世界の覇権国家が近代においてオランダ→イギリス→アメリカというように変遷しました。近代が「世界」=「経済」として規定付けられるとともに、商人資本→産業資本→多国籍資本というように資本が推移していきました。つまりそれぞれのステージにおいてこれ以上拡張していく行き場を資本が見いだせない時に、すなわち臨界点に達した時に構造転換が起こらざるを得なくなるということです。その時にコンフリクトが生ずる。それが戦争です。戦争を回避する場合は植民地政策、奴隷制度に形を変えます。イギリス、フランスなどは前者でアメリカは後者です。戦争を回避できなかったのがドイツ、日本になります。
 16世紀にイギリス海軍がスペインの無敵艦隊を駆逐したことから、「世界」=「帝国」による人民支配に大きな陰りを見せることになります。変わってオランダが地政学上ヨーロッパの中心に位置しており、また海や川などの水路が豊かで交易するのに適しているという観点もあって、経済の中心地になり繁栄しました。「世界」=「経済」の黎明期です。18世紀においては産業革命がイギリスで最初に始まり重工業が発展しました。このことが軍事産業と結びつき、インドなどを威嚇して東インド会社をオランダの規模を遥かに凌ぐ規模で設立して本国にやはり多大な利益をもたらしたのです。
 ドイツは近代化に遅れて世界に名乗りを上げることが出来ませんでした。18~19世紀のことです。このためドイツは国民が貧窮した。その後目覚ましい重工業化を達成して強大な軍事力を身につけて、資本を外部に求めた。この時に戦争を起こすのです。第1次世界大戦がそれです。次の大戦も一次大戦からのいち早い復興を遂げるとともに、ヒトラーナチスが資本をさらに外部に求めた結果なのです。いわゆる西部戦線、東部戦線がそれでした。
 日本もドイツと状況が似ていたと思います。鎖国によって近代化に乗り遅れた。アメリカ、ロシアに通商条約締結などを求められ外部からの圧力に耐えきれなくなった。例えそれに抵抗したとしても軍事力で圧倒されるのは明白でした。明治になって近代化を進めるため日本はイギリスなどの欧米に範を求めました。森鴎外のドイツ渡航、夏目漱石の英国留学もその一環です。殖産興業に代表されるように急激に産業が発展した日本もそれだけでは満足できず、外部への拡張を目指しました。その結果日清戦争、日露戦が起こり、韓国併合、台湾支配、琉球処分が行われました。
 しかし、ドイツ、日本はイタリアとともに世界において再び帝国支配を復活させるもので、自由主義国アメリカ、イギリスなどがソ連との連携のもとに第2次世界大戦の激戦を制しその野望を打ち砕きます。アメリカとソ連の冷戦を経て1990年からはアメリカ1国が世界のヘゲモニーを握ることになりましたが、フランシス・フクヤマが予想したような安定した社会は訪れることはなく、イラクアフガニスタンなどで戦争、紛争が起こり中東をはじめ今もそれは絶えません。
 歴史が物語っているのは、経済と戦争が密接に結びついているということです。人は利益を求めて常に外部へと食指を伸ばしていくというマインドが働くからです。21世紀になって宇宙以外に外部が無くなったとも私には思えます。であれば、もう経済成長は特に日本のような先進国では本質的に望みにくいのです。
 昨年テレビ朝日報道ステーションのコメンテーターであった古賀茂明氏が言うように、質素でもいい、自身の信念に従ってこれからも妻とともに歩んで行きたい、という趣旨の発言は私には極めて全うに思います。

先日、東京へ行きました。 2015.11.2

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 沖縄を去っても関西で立て直して次につなげていただきたいと思います。

 入れ替わり沖縄を訪ねたい、と今春にその思いを馳せて以来、今も変わらぬものがあるのですが、こうなってしまうと魅力も半減します。私には時間があるはず?なので沖縄の温かい冬の時期にと考えていますが、今のところ未定です。(結構思い至っても実行に移すのに躊躇するというのが私の特徴のようです。つまり言うだけの人間ということです。だから程ほどに聞いていただいて結構です)

 それよりも、落ち着かれたら一度お会いしたいですね。二度目になるかと思いますが考えていただければと思います。

 

 先日、東京へ行きました。写真はかの有名な門です。門を潜り抜けると大都会のど真ん中だというのに広大な敷地があり、学舎が並びそこに樹木があり池もあり別世界でした。歩を進めていくとあたりが開けて重厚感のあるファサードが現れました。50年程前に騒然となったあの舞台となったところです。今は芝生がきれいで長椅子があり人々の憩いの場となっているようです。

 その近くに人文社会系の事務部を見つけて、募集要項、過去5年間の入試問題集を手に入れました。今年度入試の申し込みは既に締め切られていて、受験するにしても次年度以降になります。東京となると京都のようなわけにはいかない何かと諸々の問題が生じてしまい難しい面があります。例えば言わずもがな生活の拠点が完全に変わってしまうということです。とりあえず関西を忘れなければなりません。さらに東京の2年でのめりこんでしまうことにでもなれば生活の拠点を完全に東京に移すことになるやもしれません。(その可能性は低いと思います。目標は学者になることではないからです。この年から何かになれるというもでもありませんし。ヘーゲルのいう気概とでもいいましょうか。修士を習得することにより、私自身、世界がどのような歴史を辿り今日に至っているのか、そしてその今日がどのような未来を切り開いていくポテンシャルを持っているのかを少しでも考察できればと考えています) 

 先のことはともかくとして、受験するかどうか、試験を受けたとしても肝心の合格できるのかという切実な問題が立ちはだかります。かなり難関なのはいうまでもありません。ただ過去の問題を見ているとやれそうな感じもします。例えば大学院の試験では恒例の語句の説明においては、前回試験ではその一つに「脱構築」がありました。フーコーやドゥールーズ、デリダといった現代フランス思想の本質を理解していれば問題ないと思います。

 他にも「メジャーな言語で書かれた文学」と「マイナーな言語で書かれた文学」の区別に意味があるのか、文学作品を例に挙げて答えよという問いですが、私の考えでは歴史的にみて今でも両者は区別されているという現状があると考えていますが、民主主義の発展に伴い徐々にその区別は解消されつつあると考えています。

 設問にある「意味があるのか」については当然意味があるといえます。何故ならそのことは歴史を表象してきた証拠の一つといえるからです。

 フランス革命以降(広義に考えれば名誉革命以降、つまりはそれまでの王権神授説が否定され人権の理念=人民主権が表象されてから、フランス革命に至っては王政が根絶されたのでその意義はさらに大きいといえる)、それまでのシェークスピア(英)の「オセロ」、ラブレー(仏)の「カルガンチュア物語」、ゲーテ(独)の「ファウスト」、ダンテ(伊)の「神曲」のように、神話、キリスト教、王政といった封建制度を基調にした人間ではない神や王といった超越的存在について、その存在を礼賛するといった、等身大の人間存在の希薄性が垣間見える文学が支配していたといえるかと思います。

 それが革命によって一変したといえます。19世紀に入るとディケンズ(英)の「デイビッド・コパフィールド」、フローベール(仏)の「ボヴァリー夫人」、ドストエフスキー(露)の「カラマーゾフの兄弟」、ホーソーン(米)の「緋文字」のような庶民の日常における細かな心理や生活を描いた文学が花開いたのです。いわば市井にいる何の変哲もない人々について描かれたのです。これらの名もないような人間とその人間を取り巻く社会を描く19世紀に表象された文学は20世紀を経て21世紀に至り綿々と続いていると考えます。今日的には、大江健三郎の「恢復する家族」のような家族を舞台にした文学をはじめ、ジョン・アーヴィング(米)の孤児といった境遇に不幸のある人たちを描いた「サイダー・ルール・ハウス」、カズオ・イシグロ(英)のクローン人間というこれまでに存在しなかった人間を描いた「私を離さないで」など、恋愛、家族愛、人類愛というような普遍的な心情を取り上げ、ありのままの人間を見つめようとする目線は、日々の進歩、例えば科学技術の進展が目覚ましい社会変革が行われていく中でさえも、いつの時代にも忘れ去られることのないものとして永遠に存在し続けるものと考えます。余談になりますがこのような文学は世界文学といえます。

 第2次大戦までは欧米列強による世界各地への覇権により、アジア、アフリカ、中南米のような被支配国は人民の諸権利が著しく制限を受けていました。言葉についても同様で中南米の多くの国では、16世紀以降のスペイン、ポルトガルの侵略に伴い、現地の言葉がスペイン語、ポルトガル語にとって代わっていったという歴史があります。それはアフリカやアジアにおいても同様です。17世紀以降、主としてイギリス、フランスがウォーラーステインがいう世界経済システム=原初資本主義を確立するため、その地を植民地として形成し、そのシステムを合理的に行うための一環として英語、フランス語等を現地人に強要させて、欧州列強にとってスムースなシステムの運用を行ったのです。つまり現地語=マイナーな言語が圧殺されてきたという歴史があるのです。16世紀から20世紀前半にかけて、欧米など富国列強諸国以外の国から、その国の本来ある言語によって世界に向けて発信された文学は皆無に等しいかといえます。存在しようとしても列強国の圧政により抹殺された可能性があるのです。

 20世紀後半になって、民主主義が発展し、多くの国々が独立を遂げ、それに伴いこれまで世界に紹介されてこなかった地から文学が発信されるようになりました。特に中南米の国々からの発信が目立っているように考えます。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」、バルガス・リョサの「緑の家」、カルロス・フェンテスの「老いぼれグリンゴ」などが挙げられます。しかし言語はいずれもメジャー言語であるスペイン語です。

 同じ中南米でもハイチ等のカリブ海の島国では、現地の言葉とそこに入植した列強国の言葉、例えばフランス語、オランダ語などと融合した言葉=クレオール語が構築されて、世界的には馴染のない言語によるものですが注目される文学が世界に紹介されました。ラファエル・コンフィアンの「コーヒーの水」はクレオール語を駆使した著名な作家として知られています。クレオール語で描かれた世界観として、歴史において支配され迫害を受けてきた人々の思いがそこに込められております。

 東欧では大戦後、ソヴィエトの影響を受けながらも独立を果たしました。ハンガリーアゴタ・クリストフ作「悪童日記」、チェコミラン・クンデラ作「存在の耐えられない軽さ」、ポーランドのヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ作「尼僧ヨアンナ」などが、それぞれ母国語で文学を描きました。クレオール語とともにマイナーな言語といえます。これらの言語で描かれた作品に共通するものはクレオール語と同様に抑圧された社会において、人間が人間としての当然の尊厳のある生を営むことの強い願望が込められているのです。政治的には抑圧されていたとしても、人間が人間である以上、文学によってその抑圧からの解放を願う心情さえも消し去ることはできないといえます。そうした思いは文学作品を通して滲み出てきたり、あるいは炙り出てきたりすることを物語っているといえます。ここに文学の持つ大きな意味が存在すると考えます。つまり近代システムが国家の利益に寄与するためだけに存在して、人民がそのための踏み台になってきたという歴史的現実があって、その記憶を為政者によって葬り去られようとしても、ありのままの心情が綴られる文学までも完全に消し去ることは不可能だということかと考えます。このことは19世紀における欧米の文学者が啓蒙時代における人民の表象から生じた自我意識の発展に伴う、英語、フランス語などのメジャー言語による文学の表出と同様に、人間とは何かを根源的に問うという点では何らメジャーな言語、マイナーな言語の区別に本来的には意味はないと考えます。しかし歴史を見つめる場合、明らかに、抑圧されたマイナーな言語で綴られる文学において、逆境の中では人々の共感を呼ぶ人間の真の声というものが紡ぎ出されやすく、普遍的な文学が生み出されているという今日の状況が存在します。 

 長々と書きました。もう少し短時間で簡潔に書く必要があります。三題で150分、そのうち一題は「脱構築」のような語句説明を八問中選択で五題に答えるというものです。ある程度自信はありますがまだまだ不十分なのは言うまでもありません。

 今はとにかく良書を読んでいますね。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」読まれましたか。マルクスではなくヘーゲル歴史観を中心に据えて、ソクラテスプラトンといった古代ギリシャ哲学を語り、さらにマキャヴェリホッブス、ロックという政治史を語り、ルソー、ニーチェにまで行き着くという壮大な作品です。小説ではウェルベックの「服従」が今日的です。「素粒子」の作者です。映画にもなりました。結構好みではないかなと推察します。

 それから東京に行ったときに神田神保町の古本市を訪れ、その時に山上氏の最新刊「パスカルと身体の生」を見つけ半額で手に入れました。その内に読ませていただきます。その前にパンセを読む必要があります。解説を先に読む読み方もある。順番考えてみます。パスカルは17世紀の人だから、私が興味を抱いている19世紀の世界とは当然違うはずです。モンテーニュの「随想録」は16世紀で、ヴォルテールの「カンディード」は18世紀で、それぞれつまみ食いしましたが、そういえば17世紀がミッシング・リンクでした。

Jean Tirole氏の著作読みました 2015.10.9

 Jean Tirole氏の著作「Financial Crises, Liquidity, and the International Monetary System」を最近読みました。 

 経済にはそれなりに関心を寄せており、かつて知人に君のそれの議論は素人はだしだよと揶揄されたことがあるくらいです(笑)。 

 Tirole氏によると、この時代は世界の経済活動の大前提として、銀行による関与=融資が極めて重要で、逆説的にはそれが不十分だと最早経済活動は成立しないとことにあるとして、その上で論を展開しているものと存じます。その結果の罪に当たるものとして、金融を掌る政府、銀行、企業、投資家の間でモラル・ハザードが生まれ、実体経済との乖離が甚だしくなり、歴史を省みた時に、80年代初めのチリをはじめとするラテンアメリカ諸国における銀行破たん、90年前後の日本におけるバブル経済の崩壊、90年代後半の韓国や東南アジアにおいての通貨危機が生じた。2002年の論文ですので本書には触れられておりませんでしたが、2008年のアメリカにおけるリーマンショックに伴う世界規模の株価暴落も然りです。だから貸し手である銀行はIMFとの連携のもと冷静な対応が必要とされ、金融政策には政府、投資家にも同じテーブルに乗せて協議する必要もあり、一方借り手である企業にはコーポレート・ガヴァナンス・コードの遵守が求められるということかと存じます。

 Tirole氏の論は、ジョセフ・スティグリッツポール・クルーグマン、最近ですとトマ・ピケティの議論にも通じているものと思います。ピケティーは著書「21世紀の資本」の中で経済の歴史を振り返り、統計的に常にr>gであることを発見しました。Tirole氏の論に重ねて考察すると、その場合、r≒投資=マネーとして、g=実体経済を意味しているといえ、つまり世界経済の規模は常に実体経済の規模を超越している、換言すればヴァーチャル経済が近代社会において世界を支配し続けているという歴史が明らかにされたのです。Tirole流に言えば、その超過している部分は未来への投資ということになるのでしょう。一方ピケティはそのことが格差社会を生みだす元凶であり、不平等感から国家間において戦争が繰り返されてきたとして、その改善策として資産に対する累進課税を提唱し、資本主義経済内での平等な社会の実現を目指すべきであると主張するのです。 

 あなたが感銘を受けたというクリストファー・ノーラン監督の映画「インターステラ」は、経済問題等から、見境が無くなるようなモラルハザードが大規模に生じれば、ITに支えられた現代のような高度に先進されたハイテク社会が簡単に崩壊することを見越して、その後の破滅的な社会の生末からいかに人類は新たな世界を創造することが出来るかという人類の課題に挑んだ作品であると思います。ノーランもこの社会のヤバさに気付いているということを前提に考えていると思います。 

 来週にはノーベル経済学賞が発表されます。ピケティーだといいのですが。(結果はアンガス・ディートン氏でした) 

 因みに文学賞の方はベラルーシの方でスベトラーナ・アレクシエービッチ氏でした。村上氏でなくて残念ですが、私は過去数年の同賞受賞者の中で最も注目に値する作家であると思っております。メディアの論調を聞いている限りにおいてですが、第二次世界大戦に従軍した女性兵士の取材に基づく告発や、チェルノブイリ原発事故における住民の証言をもとにした告発などを、その著書などにおいて積極的に行っているとのことです。経済問題から派生する闇に光を当て問題の深刻さを浮き彫りにしようとされているのではないでしょうか。 

 沖縄の基地問題もそうですが、中央の繁栄は周辺の犠牲のもとに存在するという構図が、この東欧、そして中南米にも当てはまると思います。つまり安定した電力供給を含めたモスクワの繁栄は原発を設置したウクライナにおける危険と引き換えに存在するのです。かつての東欧諸国もワルシャワ条約機構の傘下に入ってソ連の盾になって、ソ連への西側諸国からの介入を阻んでいました。 

 中南米においても例えばチリがそうです。漁業産物、鉱業産物の利権を巡ってアメリカの繁栄のためにその資本が介入されてきたという歴史があります。今日のTPP問題にまでもその構図は至っていると私は思っています。一方でキューバベネズエラは抵抗し続けました。少しその状況は変化してきておりますが、要するにフリクションが生じている社会では、人間が極限の状況に置かれることによって、文学的には興味深い人間模様として表象されやすいのです。 

 このため文学の世界では、20世紀後半から現在に至り、注目を集めているのが中南米と東欧と言われます。私は京都の後東京に目を向けて見ました。人文社会系研究科の中に現代文芸論研究室という部門があります。そこのカリキュラムを見ているとペルーだとかポーランドとかに重点が置かれているのです。私の好みの作家、チェコに生まれプラハの春の後にフランスに亡命を余儀なくされたミラン・クンデラ(「存在の耐えられない軽さ」の著者、映画にもなりました、他に「不滅」などがある)も東欧の作家です。同時代を生きている大江健三郎氏との比較で考えたいというのが私の思いであります。このクラスには沼野 充義氏(ロシア東欧文学、近代日本文学を含む世界文学論)や柴田 元幸氏(アメリカ文学)などが教授陣においでです。超一流の先生の講義を受けてみたいと思う今日この頃ですが、東京なので色々と考えるところがあります。また試験には第2外国語があるという問題もあります。

思い直してください 2015.9.30

 半年ぐらい前にフランソワ・トリュフォー監督の「華氏451」という映画を見ました。ナチスドイツによる焚書をモチーフにした映画です。ある市民が所有する書物に対して当局からの検閲を受け焚書に指定されることになり、それらに火をつけられてしまいますが、彼女は諦めることができず、焚書とともに身を火に投じます。つまり書物がその人を育て自身の血肉となって生きてきた証しとなっているのです。だから書物が燃えるということは彼女にとって死を意味することになるのです。 

 今の時点ではあなたを育ててきたそれらの書物が、あなたの判断で今後は最早役立たないと予想される状況にあるとしても、事実として、あるいはあなたの歴史を顧みたときに、それらは最早あなたの分身となっていることを否定できない極めて大切なものとなっているはずです。例えば株なんかには何かの記憶=歴史が存在するはずもなく、したがって売り払って手放しても、また適切な時に買い戻してそれが利益をもたらしあなたの経済を再び潤わせることは十分可能かと思いますが、あなたの本はあなたの歴史そのものです、つまりあなたの本はあなたにとってのこれまで生きてきた時間そのものです。時間は取り戻すことはできません。かけがえのない貴重なものです。 

 私は一番大切なものは時間だと思います。何故なら人はやがて自身の意志に関わらず死ぬからです。だから生きるということは限りがあります。限りがあるからこそ時間を無駄にすることはできないのです。時間は可逆性がないからこそ貴重なのです。 

 私も事あるごとに例えば30年前くらいに読んだ本の一節を思い出して、もう一度その本を手にしてどう書かれていたかを確認することはしょっちゅうありますよ。それどころか再読して新たに発見することは然りです。最近ですとカフカを再読しました。クンデラもよく読み直します。 

 あなたは経済小説をやったらどうでしょうか。例えば池井戸みたいなのが世間では読まれているわけだから、城山三郎のように?リアルに経済問題を追求するような方法でやれば玄人受けしてもてはやされると思います。ジャン・ティロールのインテリジェンスをアレンジして、経済サスペンス小説のようなものを考えられるのも一つではないかと思います。