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先日、東京へ行きました。 2015.11.2

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 沖縄を去っても関西で立て直して次につなげていただきたいと思います。

 入れ替わり沖縄を訪ねたい、と今春にその思いを馳せて以来、今も変わらぬものがあるのですが、こうなってしまうと魅力も半減します。私には時間があるはず?なので沖縄の温かい冬の時期にと考えていますが、今のところ未定です。(結構思い至っても実行に移すのに躊躇するというのが私の特徴のようです。つまり言うだけの人間ということです。だから程ほどに聞いていただいて結構です)

 それよりも、落ち着かれたら一度お会いしたいですね。二度目になるかと思いますが考えていただければと思います。

 

 先日、東京へ行きました。写真はかの有名な門です。門を潜り抜けると大都会のど真ん中だというのに広大な敷地があり、学舎が並びそこに樹木があり池もあり別世界でした。歩を進めていくとあたりが開けて重厚感のあるファサードが現れました。50年程前に騒然となったあの舞台となったところです。今は芝生がきれいで長椅子があり人々の憩いの場となっているようです。

 その近くに人文社会系の事務部を見つけて、募集要項、過去5年間の入試問題集を手に入れました。今年度入試の申し込みは既に締め切られていて、受験するにしても次年度以降になります。東京となると京都のようなわけにはいかない何かと諸々の問題が生じてしまい難しい面があります。例えば言わずもがな生活の拠点が完全に変わってしまうということです。とりあえず関西を忘れなければなりません。さらに東京の2年でのめりこんでしまうことにでもなれば生活の拠点を完全に東京に移すことになるやもしれません。(その可能性は低いと思います。目標は学者になることではないからです。この年から何かになれるというもでもありませんし。ヘーゲルのいう気概とでもいいましょうか。修士を習得することにより、私自身、世界がどのような歴史を辿り今日に至っているのか、そしてその今日がどのような未来を切り開いていくポテンシャルを持っているのかを少しでも考察できればと考えています) 

 先のことはともかくとして、受験するかどうか、試験を受けたとしても肝心の合格できるのかという切実な問題が立ちはだかります。かなり難関なのはいうまでもありません。ただ過去の問題を見ているとやれそうな感じもします。例えば大学院の試験では恒例の語句の説明においては、前回試験ではその一つに「脱構築」がありました。フーコーやドゥールーズ、デリダといった現代フランス思想の本質を理解していれば問題ないと思います。

 他にも「メジャーな言語で書かれた文学」と「マイナーな言語で書かれた文学」の区別に意味があるのか、文学作品を例に挙げて答えよという問いですが、私の考えでは歴史的にみて今でも両者は区別されているという現状があると考えていますが、民主主義の発展に伴い徐々にその区別は解消されつつあると考えています。

 設問にある「意味があるのか」については当然意味があるといえます。何故ならそのことは歴史を表象してきた証拠の一つといえるからです。

 フランス革命以降(広義に考えれば名誉革命以降、つまりはそれまでの王権神授説が否定され人権の理念=人民主権が表象されてから、フランス革命に至っては王政が根絶されたのでその意義はさらに大きいといえる)、それまでのシェークスピア(英)の「オセロ」、ラブレー(仏)の「カルガンチュア物語」、ゲーテ(独)の「ファウスト」、ダンテ(伊)の「神曲」のように、神話、キリスト教、王政といった封建制度を基調にした人間ではない神や王といった超越的存在について、その存在を礼賛するといった、等身大の人間存在の希薄性が垣間見える文学が支配していたといえるかと思います。

 それが革命によって一変したといえます。19世紀に入るとディケンズ(英)の「デイビッド・コパフィールド」、フローベール(仏)の「ボヴァリー夫人」、ドストエフスキー(露)の「カラマーゾフの兄弟」、ホーソーン(米)の「緋文字」のような庶民の日常における細かな心理や生活を描いた文学が花開いたのです。いわば市井にいる何の変哲もない人々について描かれたのです。これらの名もないような人間とその人間を取り巻く社会を描く19世紀に表象された文学は20世紀を経て21世紀に至り綿々と続いていると考えます。今日的には、大江健三郎の「恢復する家族」のような家族を舞台にした文学をはじめ、ジョン・アーヴィング(米)の孤児といった境遇に不幸のある人たちを描いた「サイダー・ルール・ハウス」、カズオ・イシグロ(英)のクローン人間というこれまでに存在しなかった人間を描いた「私を離さないで」など、恋愛、家族愛、人類愛というような普遍的な心情を取り上げ、ありのままの人間を見つめようとする目線は、日々の進歩、例えば科学技術の進展が目覚ましい社会変革が行われていく中でさえも、いつの時代にも忘れ去られることのないものとして永遠に存在し続けるものと考えます。余談になりますがこのような文学は世界文学といえます。

 第2次大戦までは欧米列強による世界各地への覇権により、アジア、アフリカ、中南米のような被支配国は人民の諸権利が著しく制限を受けていました。言葉についても同様で中南米の多くの国では、16世紀以降のスペイン、ポルトガルの侵略に伴い、現地の言葉がスペイン語、ポルトガル語にとって代わっていったという歴史があります。それはアフリカやアジアにおいても同様です。17世紀以降、主としてイギリス、フランスがウォーラーステインがいう世界経済システム=原初資本主義を確立するため、その地を植民地として形成し、そのシステムを合理的に行うための一環として英語、フランス語等を現地人に強要させて、欧州列強にとってスムースなシステムの運用を行ったのです。つまり現地語=マイナーな言語が圧殺されてきたという歴史があるのです。16世紀から20世紀前半にかけて、欧米など富国列強諸国以外の国から、その国の本来ある言語によって世界に向けて発信された文学は皆無に等しいかといえます。存在しようとしても列強国の圧政により抹殺された可能性があるのです。

 20世紀後半になって、民主主義が発展し、多くの国々が独立を遂げ、それに伴いこれまで世界に紹介されてこなかった地から文学が発信されるようになりました。特に中南米の国々からの発信が目立っているように考えます。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」、バルガス・リョサの「緑の家」、カルロス・フェンテスの「老いぼれグリンゴ」などが挙げられます。しかし言語はいずれもメジャー言語であるスペイン語です。

 同じ中南米でもハイチ等のカリブ海の島国では、現地の言葉とそこに入植した列強国の言葉、例えばフランス語、オランダ語などと融合した言葉=クレオール語が構築されて、世界的には馴染のない言語によるものですが注目される文学が世界に紹介されました。ラファエル・コンフィアンの「コーヒーの水」はクレオール語を駆使した著名な作家として知られています。クレオール語で描かれた世界観として、歴史において支配され迫害を受けてきた人々の思いがそこに込められております。

 東欧では大戦後、ソヴィエトの影響を受けながらも独立を果たしました。ハンガリーアゴタ・クリストフ作「悪童日記」、チェコミラン・クンデラ作「存在の耐えられない軽さ」、ポーランドのヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ作「尼僧ヨアンナ」などが、それぞれ母国語で文学を描きました。クレオール語とともにマイナーな言語といえます。これらの言語で描かれた作品に共通するものはクレオール語と同様に抑圧された社会において、人間が人間としての当然の尊厳のある生を営むことの強い願望が込められているのです。政治的には抑圧されていたとしても、人間が人間である以上、文学によってその抑圧からの解放を願う心情さえも消し去ることはできないといえます。そうした思いは文学作品を通して滲み出てきたり、あるいは炙り出てきたりすることを物語っているといえます。ここに文学の持つ大きな意味が存在すると考えます。つまり近代システムが国家の利益に寄与するためだけに存在して、人民がそのための踏み台になってきたという歴史的現実があって、その記憶を為政者によって葬り去られようとしても、ありのままの心情が綴られる文学までも完全に消し去ることは不可能だということかと考えます。このことは19世紀における欧米の文学者が啓蒙時代における人民の表象から生じた自我意識の発展に伴う、英語、フランス語などのメジャー言語による文学の表出と同様に、人間とは何かを根源的に問うという点では何らメジャーな言語、マイナーな言語の区別に本来的には意味はないと考えます。しかし歴史を見つめる場合、明らかに、抑圧されたマイナーな言語で綴られる文学において、逆境の中では人々の共感を呼ぶ人間の真の声というものが紡ぎ出されやすく、普遍的な文学が生み出されているという今日の状況が存在します。 

 長々と書きました。もう少し短時間で簡潔に書く必要があります。三題で150分、そのうち一題は「脱構築」のような語句説明を八問中選択で五題に答えるというものです。ある程度自信はありますがまだまだ不十分なのは言うまでもありません。

 今はとにかく良書を読んでいますね。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」読まれましたか。マルクスではなくヘーゲル歴史観を中心に据えて、ソクラテスプラトンといった古代ギリシャ哲学を語り、さらにマキャヴェリホッブス、ロックという政治史を語り、ルソー、ニーチェにまで行き着くという壮大な作品です。小説ではウェルベックの「服従」が今日的です。「素粒子」の作者です。映画にもなりました。結構好みではないかなと推察します。

 それから東京に行ったときに神田神保町の古本市を訪れ、その時に山上氏の最新刊「パスカルと身体の生」を見つけ半額で手に入れました。その内に読ませていただきます。その前にパンセを読む必要があります。解説を先に読む読み方もある。順番考えてみます。パスカルは17世紀の人だから、私が興味を抱いている19世紀の世界とは当然違うはずです。モンテーニュの「随想録」は16世紀で、ヴォルテールの「カンディード」は18世紀で、それぞれつまみ食いしましたが、そういえば17世紀がミッシング・リンクでした。