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ジニのパズル 2016.6.23

 

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 1月ほど前に、故中上健次氏の作品を鑑賞するなど氏の功績を振り返るために定期的に開催している会合に初めて参加して参りました。その後の懇親会において、先の会合にゲストとして参加されていた文芸評論家の佐藤康智氏は今注目される作家はチェシル氏であると断言されました。今回、芥川賞候補に今村夏子氏とともにノミネートされております。
 そういうことがあり、「ジニのパズル」を群像6月号に新人賞受賞作品として掲載されており読んでみました。読み手の立場からは、苦難は世界観を拡張していくものなのだという、なので世界の多様性という豊かさにも似た感情をもたらすという皮肉にもパラドキシカルな状況に対峙することになって、読み応え満載という思いに至りました。一読者のそんな思いとは裏腹に、作者は骨身を削る思いで執筆され、書き終えた時には相当な脱力感に見舞われたことと察します。作者の読者に対する究極の自己犠牲といえるのかもしれません。しかし同時にそれは作家冥利に尽きるといえるのかもしれません。

 主人公は在日というルーツがあり、日本社会においては北朝鮮とは国際関係の不和から負のヴェクトルに作用して彼女自身に否応なく波及していき困難に行き当たります。問題はリネージ (lineage)にあり、だからそれ自体はどうすることもできないアプリオリなものとしてあるのだから、運命のように重く圧し掛かり避けられません。(勿論理不尽に対して抗するということもできるのでしょうが)。であればその外部へと流れていくことに活路を見出さざるを得ない。実際主人公はアメリカに渡ります。主人公は3カ国(韓国を加えれば4カ国)を越境していくのです。主人公は苦悩しながらも世界を広く見聞することになります。
 現代のディアスポラ(diaspora)の一つの様相といえるのかもしれません。私は古代ユダヤ民族の史実、旧約聖書の「出エジプト記」のことに思い至りました。モーセの導きによりイスラエルの民はエジプトからのエクソダス (Exodus)を遂げます。そして神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地(約束の地)カナンに、彼らは安息の地を求め辿り着くのです。
 最近でもこれとよく似たことがありました。シリアの人たちがISとシリア国家との戦いから迫害を受けて生活の場を奪われて難民となり欧州へと移動したのです。人間の存在価値が卑しめられる事態は歴史を振り返って反復しています。このようにミレニアムという人類をパースペクティヴにとらえようとする時間単位で観た場合にいっそう明確化されます。
 そして日本においてもその例外でない。一人の人間の問題として、すなわちイエスが説いたように、私たちの隣人の問題として有史以来続いている他者意識に根ざす普遍的な問題として、こうした問題をとらえる必要があります。「ジニのパズル」で描かれている問題も隣人の問題と考えることができます。何故なら在日の人たちを私たちが見かけることは決して珍しいことではないからです。今横をすれ違った人が在日の人であることは日本社会では決して珍しいことではないのです。
 テポドンが本当に日本を襲ったならば、彼らに対する敵意が私たち(日本人)に生まれる可能性は極めて高いと思われます。その時に一人の隣人が何の罪も咎もない単に在日というだけで、私たちは彼に対して寛容に接することができるのか大いに問われることになります。「ジニのパズル」はそういう状況を私たちに想像させてくれる作品なのです。
 因みに赤坂真理「東京プリズン」も、現代においても戦勝国アメリカと敗戦国日本という歴史に翻弄される日本人留学生の苦闘が、やがて哀切感を醸し出しながらも豊かな世界に結実する姿を描いており「ジニのパズル」と類似点が見られる作品といえます。 

 安倍首相が消費税増税を再延期したことは評価したいと思います。昨年ピケティ氏が来日した際に、日本さらには世界の経済状況から今は増税よりも財政出動をと意見しました。それが首相の脳裏に残っていたのか、昨今ではステグリッツ氏、クルーグマン氏を招いてレクチャーを受けた。そして首相は素直になった。これが小泉氏であったり、徹氏であると、何が何でもとなって強行したであろうと私は思います。そうなればおおよそ寛容の精神を欠いたものとなります。フランスでは今シャルリ・エブドの事件やその後にも続いたテロ事件から、200年ほど前のヴォルテール著作「寛容論」が俄然注目されているといいます。
 フランス革命後にロベスピエールなどによる恐怖政治などパリは荒廃しました。テルミドールブリュメールのクーデターを経て市民生活は一見落ち着きを取り戻したものの、不安募る市民の精神的支えとして「寛容論」は著され支持を得ました。増税を行い改憲に踏み切れば安倍政権は終焉を迎えることになると思います。そこには寛容がない、あるのは強い国家であって、市民はなおざりにされることになるからです。革命思想に理念としての正当性を与え忠実に実行すれば暴力を生みだし流血という惨状を招き、さらに報復の連鎖が蔓延し事態の収拾がつかなくなるのです。ヴォルテールは目の前で起こった歴史の教訓を学び、理念ではない人々の感情の問題に訴えてこの危機を乗り越えようと呼びかけたのです。
 増税なくともお金は世界の至る所に巨額にあるのです。パナマ文書が証明しています。例えば国有地の売却、法人税相続税マイナンバー制度の威力によりきっちりと徴収すれば、間違いなく今日本にある議論は殆ど解消されるのではないかと思います。租税回避、あるいは公金を公私混同するような知事がいたりするから税収不足などという問題が出てくるのです。

 昨今私はしばしば上京して、東大で開催される公開講座に参加しています。写真は先月行われた講座でアメリカの作家スティーヴン・ミルハウザー氏と作品を翻訳している柴田元幸先生です。東京が関西と大いに異なるのは勿論経済規模もそうでしょうが、私が思うには何といっても情報発信量かと思います。関西は圧倒的に東京と比べれば少ない。これはある意味において致命的で、関西が東京に比べて格差の広がりに歯止めがかからない大きな理由だと思います。東京はほぼ何でもある。例えばある講演会に世界の作家を連れて来たいと思えばそれが可能になる。何故なら一つには人口それ自体が首都圏は関西圏の2倍以上いて、講演を催せば聴講する人が必ずそれなりに集まってくるからだと思います。それに私のような自称文化人と思っているような人も多いように聞いております。だからこの日の講演は満席になりました。
 他にも映画もそうです。コアなことを言いますと、旧ユーゴの国々の現代映画が、大学関係者が翻訳するか、あるいは日本語未翻訳のまま英語字幕のものを紹介するかして、いわばコミュニティーレベルで上映されたのを私は鑑賞しました。ハリウッドの面白過ぎる映画なんかとはクオリティーが全く違う。本当の世界を描いている。私は感心しました。美術も音楽もそうかと思います。私はFMで鑑賞しましたが、音楽ではGWに日比谷でラ・フォル・ジュルネ音楽祭が開催されておりました。ここでも世界で活躍の音楽家が集い演奏したのです。東京は一極集中の他に情報過多という批判も一方で存在するかとは思いますが、これまで関西(local)に住んでいた私にはやはり新鮮で東京(central)の魅力にはまりそうです。

 やるのであれば東大しかありません。ただもう少し、読書を入念にして準備をしておきたい。論文作成の材料にも当然なりますし、研究計画の作成にも必要になります。ただ研究というよりは個人的な意味合いにおいては探求ですね。おそらくこれは死ぬまで止められない。探求のために東大を利用する。また偏見といわれるかもしれませんが私にとっては東大以外は利用価値がないともいえます。そもそも文学をtransversal studyとして捉えようとする大学は殆どない。縦割り行政とはよく言われましたが、アカデミーもそういう要素は多分にあると思います。沼野充義先生はそういう意味で柔軟だと思います。積極的に他の教室、例えば英米文学の教室と連携を図っていこうとされているように思います。例えば他教室との共同企画でのイヴェントを積極的に開催しております。この姿勢には敬服の一語です。今月早稲田に行ってきましたが、学生の数だけやたら多くて、参加者は本気で研究しようというヘーゲルニーチェが強調するテュモスがそこにあるようには私には感じられませんでした。来月は東大です。そして最終的に門をくぐることになったとしてもいつまでも学生というようなわけにはいかないわけだから、社会に対してフィードバックしないといけないと思います。英語もどんどん読まないといけないと思いますし、フランス語もできないとダメだし。
 こんなことを話せるのは身近にはあなたしかいません。原田では話にならない。齋藤、松井、横田・・・も同様です。逆に彼らから見ると私はそう映っているのかもしれませんし、そういうお前はそもそも結果として社会に適応できていないではないかと、何様なんだと怒られるというよりは笑われてしまいそうですがそれを承知で本音を漏らしました。川口はちょっと話せるかな。基本的に彼らは理系技術者だから・・・。彼らを愚弄するようで申し訳ないけど。私の悪いところです。このブログだってあなたがいないと書く意味がない。書こうという気持ちにもならない。人は結局人によって生かされ、人によって自己を発見することができるものと考えます。さらに私によってあなたが生かされるのであればこれは冥利です。

 今村夏子氏は知らなかったです。一読してみます。