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ジョージ・マイケルとシェークスピア 2016.12.31

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 ジョージ・マイケルが先日亡くなった。53歳という若さでの死である。
 彼は80年代、全米をはじめとしてワールド・ポップ・ミュージック・チャートを席巻していた。今年、ジョージ同様にその年代に大活躍したプリンスが他界した。数年前にはマイケル・ジャクソンホイットニー・ヒューストンなどが早世しているのは周知のことである。
 この80年代、小林克也司会の「Best Hit USA」がテレヴィで放映され、全米ポップスが若者の心をいっそう捉えることになった。当時彼らは聖子ちゃんや明菜ちゃんらに熱狂する傍ら、Best Hit USAを通じてPV映像とともに流れ出てきた異国の音楽は3Dを意識したサラウンド音響が冴え、そのクウォリティの高さに彼女たちのそれとは格の違いを見せつけていたように私には思えた。私も含めて当時の若い世代の多くは次第に全米ポップスに惹かれていくようになっていった。私はジョージ・マイケルの熱唱する歌唱力に魅了された一人だった。

 ジョージの音楽の特徴の一つとしてまずその明るいサウンドがあげられるといえる。「Freedom」「Wake Me Up Before You Go-Go」などは、①若者の明るい未来を讃える音楽だと思う。Freedom の歌詞の一つを紹介するとこんな感じだ。
 Part-time love just brings me down. I don't want your freedom. Girl, all I want right now is you. 
 僕は中途半端な愛なんて要らない、君を自由にさせない、今、君が僕の全てなんだ。
 調性はC-Major scale。

 かと思えば、②アダルティーな苦悩する恋を歌いもした。「Careless Whisper」「Everything She Wants」などはそのカテゴリーに相当する。同様にEverything She Wantsの歌詞をみると、
 They told me marriage was a give and take. Well, show me you can take. you've got some giving to do.
 君は結婚はギヴ&テイクなんていうけど、私にテイク出来るものなんてあるの?君は与えてもらうことだけを求めているの、といった具合だ。
 調性はF♯natural-Minor scale

 さらには③ハッピーを味わいもし悲痛な心持にも陥る微妙な心情を曲に著しもした。「Last Christmas」はそのような曲想である。
 A face on a lover with a fire in his heart. A man under cover but you tore me apart. Now I’ve found a real love. You’ll never fool me again.
 心に愛の火を灯す恋する男の表情があるというのにそれを君の前で隠していたのは、君が僕の心を引き裂いたからだ。今、本当の愛を見つけたんだ。(愛は人を強くするものだ。そんな愛を知った男を前にして)君はもう二度と僕を蔑ろにはできないことだろう。
 調性はG♭-Major scale。

 このようにジョージの音楽を振り返って、私はふとWilliam Shakespeareの戯曲を連想した。Shakespeareの作品は研究者によってTragedy, Comedy, The romancesという括りにカテゴライズされていることは知られているところだ。
 Tragedyがジョージの音楽でいうところの②のMinor scale、
 Comedyは①のMajor scale、
 The romancesは③のMajor scaleとMinor scaleのmixture、 
にそれぞれ相当すると考える。
 Shakespeareの作品は次のようになる。
 四大悲劇として知られているHamlet、Othello、King Lear、MacbethなどはTragedy、
 A Midsummer Night's Dream、The Merchant of Venice、As You Like ItなどはComedy、
 The Winter's Tale、The TempestなどはThe romances。

 「Hamlet」は父殺し、恋人(Ophelia)の自殺、エンディングではHamletの死といった救いのない悲劇を描いた。「To be or not to be, that is the question.」というセンテンスは悲痛な究極のこの世界というものを端的に示している。
 「As You Like It」は若い男女の、羊飼いや道化を巻き込んでのコケットな恋物語。「A fool thinks himself to be wise, but a wise man knows himself to be a fool.」といったウイットに富んだ囁きも随所に見られる。
 「The Winter's Tale」は不倫を扱い、歳月の流れが和解を生み、次世代における幸福な結婚へとつながる物語。「Here come those I have done good to against my will, and already appearing in the blossoms of their fortune.」はこの作品を象徴する一節であろう。

 16世紀後半から17世紀にかけて生きたShakespeareは、初期に「Henry VI」「Richard III」のような歴史劇を創作していた。そこで歴史がどう動いたのかを彼自身学んだのだと思う。15世紀中庸まで100年戦争がフランスとの間で行なわれ、その後も国内では王位継承を争うためバラ戦争が起こり民族内に蟠りが燻ぶった。彼は絶えない戦争の中で本当の敵は実は身内にあったことを重く見たのだと思う。権力争い、嫉妬、世俗に染まり切ったトリヴィアルな問題に宮廷生活内においても、いわば上流社会においても同様に翻弄されている人々の姿を見出すことになった。このことがその後のShakespeareの創作に大きな影響を与えることになったのだと私は思っている。「Hamlet」「Othello」「King Lear」「Macbeth」はいずれも王家を描きながら、王家で起きていることも、覇権争い(authority)、財産相続問題(money)、男女問題(affair)に明け暮れている姿を克明に描写して、巷間で起きていることとスケールに大小があれ、さして違いがないのだと主張したかったのではないのだろうか。人間における普遍の問題であると。
 それから400年程経ってジョージ・マイケルの音楽においても男女問題における切なさや苦悩を情熱的に歌い上げた。Shakespeareが考えたことを同じイングランドで生まれ育ったジョージは現代においても状況は本質的には不変で、だからこそ受け継いでShakespeareの意志をイングランドの魂を音楽によって世界に示したかったのではないか。先に示したとおり両者において驚くべき類似点が見られる。イングランドの歴史と風土に育てられたShakespeare の魂は、同じ地で生まれ育ったジョージ・マイケルのそれに影響を与えていったとしても不思議ではない。
 日本でも同じような経験がある。夏目漱石によって、近代社会の幕開けとともにそれまで封建制度の中で閉ざされていた個人の自我が、否応なく目覚めさせられるという経験を誰もがすることになり、時代のパラダイム転換に戸惑いながらもあるいは苦悩しながらも生きていく人間像を鮮やかに描き出したが、それから1世紀ほどが経過して、村上春樹氏が2009年のエルサレム賞受賞時のスピーチにおいて語ったように、例え世界が権力により高度なシステムに覆い尽されていたとしても、決してシステムに捕捉しきれない掛け替えのない個人を見つめていきたいという趣旨の信念は、村上氏本人はこれまでの対談などの様々な機会において漱石には影響されていないと語ってはいるが、漱石の取り組んだ問題提起に通じるものがあり挑んでいるようにさえも私には思える。何しろ奥様の陽子さんの卒論は夏目漱石をテーマにしたものだったというのだから。
 「Thriller」「Bad」に代表されるマイケル・ジャクソンのリズム重視(メロディー<リズム)のビート・ミュージックや、プリンスのred(Major scaleのイメージ)でもblue(Minor scaleのイメージ)でもないpurple(atonalityのイメージ)というambiguousなミステリアス・ミュージックでは、例えば「タイタニック」「ロード・オブ・ザ・リング」のようなハリウッド映画に多々見られる仕掛けが大きくVRを思わせるマクロコスモスを表現できたとしても、Shakespeareが描いたような王であろうともなかろうとも分け隔てなく一人の人間の心情の機微を丁寧になぞろうとするような、カンヌ映画例えば「愛、アムール」「雪の轍」や、ヴェネチア映画例えば「別離」で描かれたように、社会とその時代を意識しつつ人間内面を深く掘り下げていくようなミクロコスモスを表現することはできなかったと私はみる。もっともこの二人のアメリカ人は歴史をあまり考えようとはしていなかったのではないかと思う。歴史をいうにしても彼らはむしろ未来を見つめていたといえるのかもしれない。西暦2416年頃のアメリカで振り返られた時に、マイケル・ジャクソン、プリンスをリスペクトする音楽なり芸術なりが持て囃されるようになっていることを、もしかすると望んでいたのではないのだろうか。ジョージ・マイケルの志向とはヴェクトルが逆向きではなかったのか。
 ここでパステルナークがロシア革命を生きた人々を描いた著作「ドクトル・ジヴァコ」の中の次の場面を紹介したい。ジヴァコは戦乱でモスクワを逃れた際に、偶然若い頃のガールフレンドで共に高い志を抱いていたラリーサに出会い時代について語り合う場面がある。ジヴァコは巷の革命家を鼓吹者あるいは空騒ぎする人として位置づけ、問題はパンを求めることではなく地球規模の世界の建設のために命を捧げることだとするような彼らの考えに対して異議を唱える。ジヴァコのパンの例えに呼応してラリーサは、ノアの洪水以前には人々は弱い存在のため偶像崇拝の軛から解放されようにもできなかったという現実があったが、洪水後もその地に残された人々の宗教的基盤を(約束の地に向った)人たちの長きにわたる日々の地道な信頼関係の構築努力によって作ったのだと語る。パステルナークはロシア革命の思想が歴史教訓を通過しないすなわち歴史不在の刹那的なものとして極めて危険な思想であることを見抜いていた。世界の変革には十分な時間が必要で、英雄が一人でできるものではなく、人々の弛まぬ努力があって初めて可能になるのであると。もしかしたらマイケル・ジャクソンやプリンスのようなスーパースターは歴史の中では偶像崇拝の軛に陥っている存在として君臨しているのではないだろうか。一方Shakespeareという歴史的人物を潜り抜けたジョージは彼と共に現代を生き約束の地に向って進んで行く意志を携えようとしたのではないかと私は考える。
 因みに先の文章で、パンの例えはマタイによる福音書からの引用で、偶像崇拝の軛とはユダヤ・キリスト教以前の信仰を、その地に残された人々の宗教的基盤とはキリスト教を、約束の地に向った人たちとは後のユダヤ教徒のことを指す。

 ジョージ・マイケルは創作に当たっていつからかShakespeareを自然とリスペクトしたように思う。我々日本人であれば学校の授業などで触れざるを得ない漱石の作品に感動を覚え、我々は漱石にそれを自然に感じていくように。おそらくジョージは観劇のためRoyal Opera Houseに足繫く通っていたのではないか。やがて自身の音楽に色濃く反映されていった、そんなこともふと想像しました。Shakespeareが亡くなって丁度400年後の今年に彼が逝ったということに因縁めいたものを感じずにはいられない。


 村上春樹氏が「村上さんのところ」でスガシカオさんのファンだと言っていました。「キセキ」は高校野球のテーマソングで印象に残っています。ハスキーなヴォイスもそうですが、彼のサウンドは独特で日本人離れした音楽センスを備えていると私は思います。

 今村夏子氏の芥川賞候補作「あひる」ですが純文学としては売れ行きが好調とのことです。私は「こちらあみ子」を読みました。内向の世界を丁寧に描いて他者に対しても心配りのできる控えめな作家だと思いました。チェ・シル氏もそうだけど美人だし人気出るような感じがします。しかし世界に対して心を閉ざしている感がします。そこはチェ・シル氏とは決定的に異なるところだと思います。芥川賞発表後、文芸評論家で自身も同賞候補になったことのある小谷野敦氏は雑誌文芸春秋(だったと思います)の対談の中で、受賞の可能性が高かったと評価しています。私の印象だと彼女の文章はパラグラフが一つの単位になって、パラグラフ同士が関係を繋いでさらに章として構成される。その章が単体で現在のところ小説になっている。だから一文、次の一文というような単位で読み継いでいくと、小説における読み位置が見失われる可能性が読者にはあると思います。少し難解か。逆に分かる人はそれが囲碁でいうところの味になっています。資質としては短編作家かな。小谷野氏が評価するように短編作家としては正に名人芸です。また小谷野氏によるとチェ・シル氏の文章が粗削りなのと比べると対照的だといいます。

 ところで山上浩嗣氏の下記著作がこの程講談社学術文庫より刊行されました。

 パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章
 詳細は下記アドレスのとおりです。
 http://www.g-bunko.jp/ 
 http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923941 

 私は既に読みました。今回は詳しく述べることを控えますが勉強になったことは報告したいと思います。

 写真は代々木公園近くのNHK前のプロムナードです。
 どうか良い年を迎えられますように。